東京 お寺めぐり 明福寺 寺院外活動 

アジャセの会旅行会 

相模国親鸞聖人御旧跡巡り

平成二十一年九月十日〜九月十一日

【一日目】弘徳寺→真楽寺→万福寺

【二日目】箱根神社→笈の平(別れ石)→大涌谷

二十四輩五番 親縁山 心光院

浄土真宗本願寺派 弘徳寺

神奈川県厚木市飯山四五五

開基は口伝鈔に登場する、二十四輩第五番信楽房である。貞永元年(1232年)頃、親鸞聖人がこの地に御巡錫になり、小堂を同行していた信楽房に託されたと伝えられている。 その後、善鸞上人が、晩年ここに滞留し、御往生なされたと伝えられている。弟子の浄念房(弘徳寺第二世)、作佛房(弘徳寺第三世)等の後は、天正年間まで、新堤の弘徳寺と兼任であったと考えられている。第十二代に至って、栄西房が当山専任の住職となり、以後現在(二十四代)まで続いている。


善鸞の墓所

善鸞は親鸞聖人の御嫡男で、御父、親鸞聖人とともに、関東の地に真宗の教えを宣布していましたが、やがて真宗の教えと異なる異説を立て浄土真宗の宗義を乱したことにより、親鸞聖人の御勘気にふれ、勘当の身となります。親鸞聖人の有力な弟子にも敬遠されて定住もなく、晩年になって弘徳寺に滞留し亡くなります。善鸞は異端の人として、宗門人からは背を向けられ疎まれていますが、本願寺二世、如信上人の御父に当たるので弘徳寺では大切に御墓所をお守りしています。

親鸞聖人 七ヶ年旧跡

真宗大谷派 眞樂寺

神奈川県小田原市国府津3-2-22

聖徳太子の開基にして天台宗であったが、親鸞上人が 勧堂にて布教し嘉禄2年より浄土真宗改宗した。 寺宝には親鸞上人自作の木造や阿弥陀如来御絵像、謡曲「國府津」 蓮如上人作、など多数ある。

親鸞上人が植えたとされるボダイジュが小田原市の天然記念物に指定されている

「勧堂」すすめどう
親鸞聖人は安貞2年の頃、しばしば国府津を訪れ、近隣の人々に教えを説き、布教の道場として「勧堂」を建てた。貞永元年8月、京都へ上る途中こうず(国府津)の里を通過する際、勧堂に立ち寄ったところ、人々が聖人を引き留め、その後眞楽寺に7年滞在し、弟子の顕智坊(けんちぼう)に譲り上洛した。


真宗大谷派 箱根山 萬福寺

神奈川県足柄下郡箱根町箱根二二八


一二三四(文暦一)年、親鸞聖人は関東での生活を終えられ、帰洛の途につかれた。途中、箱根山の難所を越えて箱根権現にさしかかられた際、権現の夢告をうけた社人らによって温かく迎えられ、三日間この地に留まられたという。その際、聖人は自作の御影と十字名号を箱根権現に授与されたといい、その伝承を今に伝えるのが当寺である。現在も芦ノ湖を望む地にあり、明治の廃仏毀釈の際に箱根権現から移された夢告の阿弥陀如来像を蔵する。付近には、関東から付き添ってきた性信房と聖人とが、腰掛けて別れを惜しんだという「別れの石」や、箱根神社(権現跡)などの旧跡が点在している。

箱根神社内にある親鸞聖人像


別れ石
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