東京 お寺めぐり 明福寺 寺院外活動 

伝道講習会



事前学習会
二〇一〇年四月三十日(金)
本講(五泊六日)
法話実習(一日)
対象 原則として三〇代までの有教師



本講日程
五月二四日
序講
聖典素読
勤行・夕食
話し合い
二五日
勤行・朝食
講義『歎異抄』
考究
昼食
運動
輪読・攻究・
聖典素読
勤行・夕食
話し合い
二六日
勤行・朝食
講義『歎異抄』
考究
昼食
運動
輪読・攻究・
聖典素読
勤行・夕食
話し合い
二七日
勤行・朝食
講義『歎異抄』
考究
昼食
運動
輪読・攻究・
聖典素読
勤行・夕食
法話原稿作成
二八日
勤行・朝食
講義『歎異抄』
考究
昼食
運動
法話原稿作成
勤行・懇親会
二九日
勤行・朝食
講義
閉講式

第17回東京教区伝道講習会の宿題

何を「よりどころ」として生きているのか。また、生きて行きたいのか。御遠忌テーマ「今、いのちがあなたを生きている」への応答を考える。

私がよりどころにして生きているのは、最初、家族や安心出来る人間関係が頭に浮かんできました。それは、事実生活の中で感じているからです。しかし、深く掘り下げて、今現実に感じているよりどころが、何時如何なる時もそうであるかと思って見ると、それはそうはいきません。普段と違う突発的な出来事が起きた際には、瞬時に崩れ去り、よりどころどころか、攻撃の対象になったり、不安の種になったりします。

だから日常の範囲で私がよりどころとしている家族や人間関係というのは、あくまで仮であって、その根底にあるものをよりどころとしています。それは何かといったら、無意識に要求している、「私の思い通りの世界」であるかと思います。そのため、私の思いが叶わなければ、私の思いは、よりどころとはなりえません。

では何をよりどころにしたいのかといえば、私の思い通りにならない時に、諦めることなく我慢することなく前提となり、何が起きても、ああそうか納得できることになることかと思います。

御遠忌テーマの応答は、「いのちの思いを聞け」私を存在させているいのち、私の思いではない、いのちの思いを聞いて行く、それが浮かんできました。

環境とは、人間にとってどのようなものか。また、現代の温暖化に見られる環境問題についてどのように考えているか

環境とは、今の人間そのものを表した、人間以外の全てではないかと思います。そして相互に緊密な連携を取りながら、影響し合っているのではないかと思います。人間の視点で環境に良し悪しを付けた場合、良い環境にいれば、良い人間となり、悪い環境にいれば、悪い人間となる。また、良い人間がいれば、良い環境が出来、悪い人間がいれば悪い環境が出来る。また、その逆もいえる事で、悪い環境というものが、人間に悪いと感じさせることで、その環境を良い環境に変えて行こうとさせる意志も育てていく、環境と人間は、一体化しながら、反発していくような関係ではないかと思います。

そして、温暖化の環境問題ですが、私達人間が、住みやすい世界を形成していった結果、住みにくい世界を形成している。発展を目指しながら、滅亡へと向かっている。そして、いざ住みにくい世界、滅亡に向かっていると気付いたにも関わらず、比較対象ではない問題と比較して、即座に行動に移せない、人間そのものが矛盾しているが故に起した問題ではないかと思います。

温暖化について考えたら、加害者、被害者の両当事者が自分自身であり、そしてその意識も持っているにも関わらず。その問題と対峙していくのは私ではないと思っています。一人が小さいことでも、全員がすれば大きな力になるなんてことはわかっているのに、無責任にどこかの科学者がとてつもない発明をしてくれるのだろうと思っているのです。


作成した原稿

浄土往生と生活

東京五組明福寺の中根と申します。簡単に自己紹介させていただきます。お寺の長男として生を受けたのですが、一昨年までサラリーマンをしておりました。その当時まで生活の中で苦痛を感じても、その救いを宗教に求めたことはなく、自分の力で切り開いていく、思った通りにならなければ、他人が悪いか、運が悪いのか・・・
そのため、上手くいっている時は自分の力、問題が起きれば自分以外の責任このような価値観で生きてきました。そして色々な縁が重なってお寺に入り、この場所に立っているわけでございます。
お寺に入り生活するようになってから、聞法とはいえないかもしれませんが、様々な学習会や研修会に参加してきました。それはお寺にいるから、お坊さんだから、当然経験もございませんので、わからないから、わかるようになりたい、自分の力で学んでいって、わかるようになったら、やめようと思っていました。
そのような中で転機がございました。ある先生のお話を聞いていまして、いい話だなと思ったのですが、後日他の先生のお話を聞きにいきましたら、前回お話された先生が一番前に陣取り、話の後に質問までしている。この姿を見まして

蓮如上人御一代記聞書にも
「いのちの、娑婆にあらんかぎりは、つみはつくるなり。」

とあるように、自分の力でわかるようになるまで聞いていこうというのは違い、聞法とは聞かなければならない自分を明らかにすることなのかと思い始めました。
そして、私自身真宗の教えを学んでいく中で気にかかってくることが出てきました。それは浄土です。浄土真宗というくらいですし、ある話の中では「浄土真宗とは、日本の仏教の中で、天台宗、真言宗というような宗旨という意味もあるのだけれど、本当は、浄土の真実を宗とする。すなわち浄土を真の拠り所とする」と、その時はなるほどと思ったのですが、では浄土を拠り所とするとは、そもそも浄土とは一体なんなのか、そして浄土往生と浄土に往き生まれるとは一体どういうことなのか、そういう疑問が出てきました。
そして今、喜怒哀楽しながらも、平穏無事に日常を生きています。しかし、心の奥底では、漠然とした不安も抱えています。言い知れぬ不安が芽生えても、そんなこと考えたって答えなんかでない、考えたって時間の無駄と目を閉じてしまいます。
しかし、今回お話させていただくに当たって、不安を抱えながら生きていることと、浄土を拠り所とするとは、一体どこで繋がってくるのかが、課題となってきました。
そもそも、今私は何を拠り所としているのか、一言では言い尽くすことは出来ませんが、私のいのちを支えてくれる一切のもの、それも、ただいのちを支えるだけでなく、活き活きとさせてくれるもの、すなわち、私の思い通りの世界にいるという実感です。
愛する人がいて、愛されている実感があり、健康で、ある程度お金があって、勝負には勝ち、優劣つけたら、優になりたく、キリがありません、まあこの位でといってみても、この位より下になったら、活き活き出来ません。
だから、平穏無事に生活していても、諸行無常のこの世界で、遅かれ早かれ、いずれ私の思い通りは崩されるのを無意識に感じていますから、不安なわけです。
泣いて、傷ついて、悩んで、怨んで、怒って、諦めて・・・最終的には絶望して死ぬ未来が見えてくるのです。
だから、考えない、見ないようにする。こうして日常を安定させています。
いずれ崩されるものを拠り所として最終的に絶望する私を、浄土はどう照らしてくれるのでしょうか。
頭で解決出来る話ではありませんが、二つしかありません。一つは私の思い通りが続くと心の底から実感するか、もう一つは私の思い通りが崩されながらも、活き活きと出来る生き方が見出されるかです。
では浄土とは一般的にはどういう意味を持っているのか、辞書の意味を抜書きさせていただきます。
@死後おもむく来世に立てられたもの、すなわち、この世に仏はいないが、死後の来世に他の世界に行けば仏に会える
A信仰を通して、ただ今、ここにおいて、つかまれ、ひたる、現実にある

では往生とは、
@「この世の命が終わって、他の世界に往き生まれること」
A「穢土をはなれてかの浄土に往き生まれること」
とあります。往生の説明の中で出てきた浄土に対する穢土とは
@「この世」
A「迷いの世界の総称」
 ただ浄土往生といった場合には、浄土を概念化してしまって私との関係性が見出せませんが、不安を感じている現実すなわち穢土での不安を機縁にして浄土を願う実感が切実に求められ、頷きが起きれば、私の拠り所は浄土といえると思います。
 言葉の上、理屈の上では、浄土は真の拠り所となるとわかりましたが、一つ問題が出てきました。
救い助かることは、生きながらにして浄土に往生するのか、または、死んで浄土に往生するのか、言葉の意味としては両方与えられています。そして、世間的な印象では死と同義語として使われているのではないかと思います。もしそうであるならば、絶望して死んで、その後、浄土に往生して救われる。果たしてそれが浄土を拠り所とすることなのでしょうか。

 『執持鈔』に
「往生浄土のためにはただ信心をさきとす、そのほかをば、かえりみざるなり。往生ほどの一大事、凡夫のはからうべきことにあらず」

 とあるように、私が頭で解明することは出来ないことなのかもしれません。しかし、その事を通して、本質的な問題に出会えるかも知れないので、私がこの一年講義を受けた中で、印象に残っている言葉を紹介させていただきます。
ある先生は「一般的浄土教理解では、死ぬことを指していると思われるが、理としては、生きての涅槃はあるといえる。しかし、実感出来ない、親鸞聖人は、死後往生とは捉えていないと思われる。最終的にはあなた自身が学んでいくことです。」
ある先生は「死んだら、浄土に往くのではない、浄土の功徳が今あるから、浄土に往けることが定まる」
この二つの言葉は頷けるものでした。今不安を感じたまま、そのままの姿で救われる。今のあなたで良いのだよという声が聞こえなければ浄土が拠り所とはなりえないのでしょう。

『口伝鈔』には以下のように書かれています。
「一 体失、不体失の往生の事。
 「上人親鸞のたまわく、先師聖人源空の御とき、はかりなき法文諍論のことありき。善信は、念仏往生の機は体失せずして往生をとぐという。小坂の善恵房証空は、体失してこそ往生はとぐれと云々」中略「大師聖人源空のおおせにのたまわく、善信房の体失せずして往生すと、たてらるる条は、やがて、さぞと、御証判あり。善恵房の体失してこそ往生はとぐれと、たてらるるも、また、やがて、さぞと、おおせあり。」

親鸞聖人は、生きての往生を主張し、また証空は死んでの往生を主張します。それを聞いた法然上人は両方ともその通りといいます。そして法然上人は続けてこうおっしゃります。

「善恵房の体失して往生するよしのぶるは、諸行往生の機なればなり。善信房の体失せずして往生するよし申さるるは、念仏往生の機なればなり。」と

 死んでの往生は諸行往生、するわち、命亡くなる寸前まで、自分の力を尽くさねばならず、生きての往生は、念仏往生といわれました。
この文章を読んで、私の生き方はまさしく諸行往生を目指しているのだと知らされます。死ぬ寸前まで私の思いの実現のために努力し、いずれ絶望して死んでいくしかない。しかし、法然上人と親鸞聖人に教えられるのは、今現在の浄土が成り立つ。それは念仏往生だと。私が浄土からの呼びかけである念仏申すところに、絶望するしかない私が今救われることがあるのだということです。

 そして『歎異抄一章』に

「一 弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり。」

とあります。往生を信じて念仏する心がおきる時、決して捨てられない仏の心を実感する。そして、「弥陀の本願には老少善悪のひとをえらばれず。ただ信心を要とすとしるべし。」とあるように、念仏を選び取られた弥陀の本願はいかなる人も選ばない、そこに善悪を選び続けている私に気づかされ、同時にそのような私であっても阿弥陀の願いがかけられていることを知らされるのであります。
そしてその信心について『歎異抄後序』には

「源空が信心も、如来よりたまわりたる信心なり。善信房の信心も如来よりたまわらせたまいたる信心なり。されば、ただひとつなり。」

とあるように如来よりたまわりたる信心であるから、智慧第一と言われた法然上人の信心と弟子の親鸞聖人の信心が一緒であり、他ならぬ私がもし信心をたまわることがあるとすれば、そこには、個人の能力をまったく問わない無条件の救い、いつでも、どこでも、誰でも、すなわち、今、ここに、私が救われるということが起きるのです。なんという有難いことでしょうか。

そして親鸞聖人はその念仏を選び取られた、第十八願を『教行信証』で引用された後にこう続けます。

仏願力に縁るがゆえに、十念念仏してすなわち往生を得。」と、

念仏を称えることは仏の願いに縁ることなのだ、だから往生することができるのだと、自己中心的な私の願いに生きていた私が死に、仏の願いに生きる私となるところに、今の浄土往生が起きるのだと知らされます。
そして私の生活の念仏はどのように申されるのか、ある人が手紙の冒頭に南無阿弥陀仏と書いて文章を始めることを教えていただきました。

その方は梅雨の時期、雨ばかり続いていた季節の挨拶で、

「南無阿弥陀仏 水晶のような如来様の梅雨でございます。」表現されたそうです。

梅雨をあまり好きな人はいないと思いますが、念仏の人には皆光って見えることを教えてくれます。

『教行信証』に
「謹んで真仏土を案ずれば、仏はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。」

南無阿弥陀仏は、自分本位の闇の中にいる私に既に光の中にいることを気付かせてくれるのでしょう。それを浄土と呼ぶのでしょうか。今はハッキリとわかりません。今後の学びや生活を通して、全てが光って見える眼がたまわれたらいいなと思います。

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