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11月課題 教行信証試訳



【教行信証本文】

竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。(聖典149頁1行目から7行目)

【試訳】

ひそかに思いをめぐらしてみると、思いはかることのできない広大なる誓願は、渡ることが難しい海、生死の悩みを渡る大きい船です。なにものにもさえぎられない光は、真理に暗い愚かさ、無明の闇を破ってくださる智恵の陽光です。だからここに、浄土教のおこるべき縁が熟して、提婆達多が阿闍世王子を誘惑して父王を殺せしめ。また浄土に生まれるための念仏を称える人を世にあらわすために、ここに釈迦仏と王妃韋提希夫人に安養の浄土を選ばせられたのである。これこそは、世の人を導くために仮に姿を現された方々が、ともに等しく苦しみ悩む人々を救おうとされる姿であり、釈迦仏の慈悲が、五逆の罪と仏の教えを誹謗する罪を犯す人たちや仏になる因をもたない人(闡提)たちに恵を与えようとお考えになったものです。だからこそ、ここにはっきりとわかったのです。よろずの徳を具えた、かくけることがない弥陀の名は、悪を転じて徳に変える正しい智慧であり、凡夫にては信じられない、堅固の信心は、疑いを除いて、証を獲させる真理であると。

【感想】

「浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。」という箇所が印象に残りました。

提婆達多が阿闍世を誘惑して父王を殺せしめという事実は、実は浄土の教えが起るべき縁が熟して起きたことです。ここの表現は思ってもみませんでした。私の理解からいえば、痛ましい事件が起きた、そしてその被害者である韋提希夫人をお釈迦様が救った。その時に説かれたのが観無量寿経であると。だから、他人の話として聞いています。しかし、そうではない、実は私たちを真理に導くためであったと、真理になぜ私達が気づかされ、よりどころとするのか、それは絶えず、私たちが真理に反しているからなのでしょう。

だからこそ「悪を転じて徳を成す正智」こちらの文章の、悪を転じて徳と成すという表現もなるほどと思えてきます。悪を消して、徳を作るのではなく、この「転じて」、徳の源は、智慧によって変化された悪、悪がなければ徳もない。

すなわち、息子による父殺害、そして母の究極的な嘆き。その嘆きに応ずるがため釈迦を通じて教えが説かれた。この最初からの一連の流れそのものが、人間共通の課題であり、真理の導きなのでしょうか。

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