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2月課題 講義の感想



如来と超越の感想

菅原先生の講義を受ける前に、仮に如来とは何かと問われたら、真理より来る者、もしくは、仏の別名というような答えをしていたと思います。しかし、それを一歩踏み込んで、では真理より来る者とは具体的に自分の言葉で何かと問われたら、次の言葉は次げないのです。

今回の講義は、様々な文章を引用して説明していただいたので、その都度、疑問に感じ又は、頷いて聞いていました。印象に残った言葉をあげさせていただきます。

「親鸞にとって、如来は解釈上の存在ではなくて、はだの上にじかに感じる実感的な存在だった」林田茂雄

 なるほど頷く反面、如来は実感的な存在で、解釈上の存在ではないという言葉になるほどと思える人は、解釈上の存在として追いかけている人であり、実感的な存在として如来を感じる人は(如来と名付けているかは別にして)この解釈に出遇わないのではないかと感じました。また「存在」という言葉に、そもそも如来は存在といえる対象なのか、わからなくなりました。

「法蔵菩薩は阿頼耶識である」

「自分自身の心の深いところに仏さまを見出して行こうというのが法蔵菩薩であろうと私は思うのであります。阿弥陀如来さまと言う時になれば、どうしても対象化されてくるかたむきがあるのでございますが、法蔵菩薩と言う時になると、はじめて自分自身の精神生活の深いところに仏さまの根というものを見出して行くことになる。自分自身の深いところに仏さまの根をもっておるのである。」曽我量深

如来は、対象化するもの、又は内面に存在するというようなことに拘泥すべきではないというような超越した話しなのか、双方を貫きつつ、包み込んでいるものを指しているのか、はたまた、まったく違い私には理解不能な領域に入ってしまったのかわかりませんでしたが、対象化してとらえてきた、如来が、ここでの話で、私の内面と深く関係している印象を受けました。

「抽象的〈対象的〉に考へてへ居る如来はそれは如来でないと思ふ。単なる如〈真如、一如〉であって如来でないと思ふ。如来と云えば来と現れて居る。」曽我量深

対象的なものではなく、何かが起こって、そこに如来を実感するということなのか。しかし、肝心要の如来そのものはよくわからないままです。

「人生の意義は不可解であると云ふ所に到達して茲(ここ)に如來を信ずると云ふことを惹起したのであります。」清沢満之

(解説文 彼の「信」は、回心、気づき、感動、つまり受動的なコトを語っているのです。大いなる感動として、「はたらき」として、如来を実感しているのです。)

感動としての如来、感動している時、そこに私はないという言葉は、私に一つの頷きを与えてくれました。私は感動したとは確かにいえない、意図的に感動しようと思うことは出来ません。後になって、感動していた私がいたということは出来ても、やはり先に来るのは感動になるからです。

それと、受動的なものであれば一つの頷き得たのも、如来といえるのでしょうか、それとも感動という実感がなければならないのか。

また、感動した後にそれが引き金となって能動的な、「私」という意識の基に行動した場合、それは如来と無関係なのかと質問し、「それは邪念ですと」とバッサリ切られてしまいましたが、この私が最初に立つと、どんなに世間的に善と言われることであっても、邪念以外はあり得ないのかもしれないなと時間が経つと納得していました。

最後に改めて考えてみると、如来に焦点を当てて如来とは感ずることであるとハッキリおしゃった意見に出遭ったことがなかったので、凄くわかりやすい分、それ以外の発想の妨げになるような気もしました。  

そして、私が生きるということと一体どう関わってくるのか、如来に帰依するといった場合にどう繋がってくるのか今一つよくわかりませんでした。
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