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4月課題 教行信証試訳


【教行信証本文】

しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。(聖典149頁7行目「しかれば」〜11行目「ただこの信を崇めよ」)

【試訳】

そうであれば、愚かな凡夫にも修めることのたやすいまことの教えであり、鈍感な者も往くことができるいちばんの近道である。釈尊が一生をかけて説かれた教えの中に、この海のような功徳をそなえた教えは他にはない。娑婆世界を捨て清浄な世界を求めながら、そのための行に迷い、信じることに思い惑って、心も暗く、見識も少なく、悪は重く、障りが多い人は、特にこの釈尊のお勧めを仰ぎ、必ずこの最も優れた真っ直ぐな道に帰依して、専ら「南無阿弥陀仏」ひとつを奉じて、ただこの信を崇めなさい。

【語句】

発遣・・・おくりつかわすこと 真宗辞典627頁

直道・・・まっすぐな道。真宗辞典321頁

【感想】

「凡小修し易き、愚鈍往き易き」この二つ語句が、浄土の教えの対象、そして、性質を現しているのだと思いました。すなわち、誰しも、誰でもが無条件に救われる、それが浄土の教え、念仏の教えなのだと。

そして「大聖一代の教、この徳海にしくなし。」この言葉の現代語訳はどうしたらいいのか、この「如無(しくなし)」とは一体いかなる意味なのかわかりませんでした。そのため、市販されている本やインターネットで調べてみると、「釈尊の説かれたすべての教えの中でこの浄土の教えに及ぶものはない」であるとか、「釈尊が一生をかけて説かれた教えは念仏の教えに極まる」という表現のものが見受けられました。

八万四千の法門と言われるように仏典は多くありますが、その中でも、真実の教えは浄土の教えなのだと、他の教えとの比較によって、真実を訴えているのは、その後の「穢を捨て〜ただこの信を崇めよ。」の箇所では浄土の教えそのものについて書かれていることを考えても印象に残りました。

本多先生の講義においても、親鸞聖人は教行信証に数多くの仏典を引用しているのに、法華経からの引用は一度もないということを聞いて、教行信証執筆の目的は、浄土の教えを顕かにすることの、潜在的な想いとして法華経では救われないのだという強烈な批判のメッセージがあるのではないかと思いました。

 前提にあるのは仏教によって人は救われるという土壌が当時はあったのではないかと思います。しかし、その前提が崩壊していると思われる現代においては、その批判の精神を新たな言葉に結び付けなければならないのではないかと感じました。
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